埼玉エキセントリック

埼玉人ですが小説が好きです。埼玉人ですが小説を書きます。

4、外はこんなに冷えているというのに(其の壱)

   

 やはり、コートを着てくればよかったと少々後悔した。日中は室内での作業であるとはいえ、今日は帰りが遅くなるのだった。通勤や移動は車だが、やはり冷える。私が深夜どこにいくことになるのかは、いまは知りようもない。いくら寒さに強いとはいえ、今日のは身にしみる。手に持っていた黒いウールの大判ストールを肩にかける。唇からふっと漏れる息は、何もかもその色で染めてしまうのではないかと思えるほどに白い。だが、もう私は車内にいるし、エンジンの低温マークが消えるのもそろそろというところだろう。このまま日中は仕事をしよう。そう心に決めた途端に、体の芯は少し温まったような気がした。
 それが起こったのは、昨夜のことだった。私は、いつものように煮詰まった研究を早めに切り上げて、(いや、切り上げたというよりはむしろ、逃げたという方が適切だろう。)いつものバーに寄った。オーナーは馴染みのおじさんで、いつも簡単な食事を適当に見繕って出してくれる。そこで食事をして、顔なじみが来れば他愛もない話をして、いや、話をしながらアルコールを入れて、そのまま帰ろうと思っていた。家に帰れば、穏やかな彼のピアノの音を聞くことができる。そして、そのまま安らかに、彼の腕に抱かれて眠りに落ちるのだ。そうする算段だった。だが、行きつけのバーには、「closed」の札がかかっていた。定休日など気にしたこともなかったし、これまで店が閉まっていたことなどない。困った。これから食事の心配もしなければいけないし、アルコールを飲まずに家に帰れるような、穏やかな気分ではまだない。ふと目線を逸らすと、店の横に、細い階段が下に続いている。目的の物以外には目もくれない性格だからか、これまでそんな階段に気づきもしなかった。どうやら、地下にもう一軒、バーがあるようだ。幸いにも看板が出ていて、「ダイニングバー」と書いてある。今日はここにしよう。簡単なパスタと、適量のお酒を飲めればそれでいい。
 私は迷わず、その店に向かったのだった。

 - 猫の影