1、虚無的扉の向こう側で(其ノ四)
僕より先に家を出た彼女が、バーバリーのベージュのコート(これは彼女の持っている唯一の“防寒着”であるように僕には思える)を着て行ったかどうかが気になって、僕はベッドから出た。やはり、部屋が寒すぎる。パジャマの上から、ベッドに脱いであったガウンを羽織って(このガウンは本来僕のものであるはずなのだが、彼女がここへ来て以来、まるで初めから彼女の物であったかのように、毎冬彼女の華奢な体を温めている)、リビングへとむかった。
僕のうしろからは、ベッドルームのドアが閉まる、カチャンという音が聞こえた。
短い廊下をすすみ、テーブルと2人掛けのソファの置いてある僕らのリビングへ行く。廊下からリビングを見渡すと、テーブルの上には彼女が僕のために準備したであろう朝食と、湯気のたったコーヒーが置いてあった。ベーコンと卵のサラダ、クロワッサンのチーズサンドイッチ、ポテトのポタージュに、まだ温かさの残ったコーヒー…そのなかから、コーヒーを一口だけ飲んでリビングの奥にあるクローゼットを確認すると、そこには彼女のベージュのコートがかかったままになっていた。こんなに寒い朝なのに、おそらく彼女はいつものように薄着で出掛け、手にはストールといういでたちなのだろう。彼女の華奢な体には、コートなどという防寒着はあまりに野暮なのだ。ただ今朝はさすがに寒くはないだろうかという一抹の不安はあるが、僕が思うよりもずっと彼女はタフだ。寒さにくらい、自分自身で対処し得るだろう。
テーブルに戻って朝食をとろう、そう思ったとき、僕の足元にシャドウがまとわりついてきた。彼女が出掛けて家の中が僕だけになったために、きっと距離を測りかねている。そういえば昨夜、「いつもより早く家を出るから、シャドウに朝食をあげるのを忘れないでね」と、まるで長い詩を朗読するように彼女に言われていたのだった。要するに彼は、僕との距離をはかりかねているのではない。そんなことは気にも留めないくらいに、空腹なだけだ。やはり、テーブルに戻って朝食をとろう。
いや、朝食をとっておかねばならない、そんな気がする。