埼玉エキセントリック

埼玉人ですが小説が好きです。埼玉人ですが小説を書きます。

机上の空論でもよいのではないか(其の壱)

      2020/05/09

さて、このようにして、僕の暗闇への冒険は幕を開けたわけだ。だが、一向に事態はつかめず、僕の心にはざわめきのようなものがあるだけだった。
僕は今、とても重要なことを思考していた。というのも、彼女は日常僕に愛の言葉をささやくようなことは少なかった。だが時として其の彼女も愛情表現としての言葉をくれるこがあった。それは「好きよ」とか「愛してるよ」といった表面的でありきたりなものではなかった。例えば「あなたの指の造形をみていると、女性的で嫉妬しちゃうわ」とか「今日のセーターの色はなんだか心がざわつく気がするの」とか、そういったシニカルながらも我々にだけにわかる愛の言葉だった。シンプルに言い換えるなら、「あなたの指って素敵ね」「今日のセーターの色似合うわよ」といった具合なのだろうが、そんなに直接的な言葉は彼女に似合わない。
ふと、久しく彼女のそのような愛の言葉を聞いていないような気がして、暗闇の中で僕は不安な気持ちがしたのだ。そうだ、どこかの時点でかみ合わなくなっていたのだ。世の中の多くの人間関係がそうであるように、片方だけがうまくいっていると思い込んでいたのだ。その分岐点はどこだったのだろう。どこで見失ったんだろう。結局のところ、僕は彼女の本質なんて何もわかっていなかったのではないか。彼女のその心を救えるのは僕だと思っていたのは、全くの思い違いで、僕は彼女の虚像を愛していたのではないか。そんな風に思えば思うほど、僕の心は暗く悲しくなるのだった。いま、彼女に会いたい。手を握っていたい。僕はいま、これまでになく、虚像ではない、実体としての彼女を求めていた。

その時だった。シャドウが僕の脚に体を擦り寄せてきた。柔らかな毛並みと身のこなしが、僕の心に温もりを与えてくれた。そうだ、もしかしたら、シャドウは何かのキーなのかもしれない。僕と彼女をつなぐ、重要な手がかりなのかもしれない。

 - 猫の影