埼玉エキセントリック

埼玉人ですが小説が好きです。埼玉人ですが小説を書きます。

1、虚無的扉の向こう側で(其ノ弐)

      2020/06/18

昨夜、夕食をとりながら(昨夜の夕食は彼女の得意なスパゲティのメニューだった。)、彼女はいつもの小さな声で、「仕事が忙しいの。明日は早朝から研究室に行かなくてはならないから、あなたが起きる頃にはもう家を出ていると思う。夕食も要らないわ。きっと遅くなるだろうから。」と、僕の隣の席で話していた。その時彼女はその綺麗な髪を耳にかけながら、赤いソースのかかったスパゲティを小さな口に運んでいた。話の内容はともかく、その仕草をとても美しいと感じた。
彼女は、大学に勤めている。学生の頃から研究室にこもって研究をし、論文を書き、それを続けているうちに、大学に残ることになり、講師業をしながらそのまま大学で研究を続けている。何についての研究をしているのか、一度尋ねたことがあるが、僕にとってその内容は、まるで異国の地の言葉がニュースから流れているくらいに頭にはいってこなかったし、本屋でかかっている洋楽のbgmのようなものだと感じた。それ以来、その点に関しては理解しようと努めてすらいない。
反対に僕は、ピアニストという金にならない職業を生業にしている。ピアニストと聞くと、周りの人は、僕がコンサートをひらいて、さぞかし派手な演出をして、と想像するらしい。そしてどのように金を稼ぐのか、とても気になるようだ。僕はベートーヴェンやショパンなんかと違って、作曲もできてピアノも弾けるなんて、そんな華やかな才能が自分にはないことに、もう随分若い頃から気がついていた。なのでピアニストという肩書きよりは、幾分現代的な、商売的な仕事をしている。小さい頃から続けていたピアノのおかげで、また、練習の賜物かそれとも母譲りだっただけか、人よりも少々長めの、そして大きめの手のおかげで、そのまま都内の音楽大学を出て、音楽関係の会社で働いたあとに、そのノウハウをいかしてピアニストになれただけだ。家ではもっぱらただピアノを弾いて、そして僕自身と彼女(そして彼女の猫であるシャドウと)が苦労しなくて済むほどの収入を得ている。

 - 猫の影