1、虚無的扉の向こう側で(其ノ参)
2023/02/19
僕と彼女とは街の本屋で偶然に知り合った。僕はそこである本(当時流行の、ほとんど小説など読む機会のない僕でも、一度は読んでみるかと思えるほど、その本は著名だった)を買うかどうか思案するために、本屋に準備してある、ある意味無意味なほどにおしゃれなカウンター席で、本の試読をしていて、彼女は僕の試読する席の隣の席にいた。彼女は、併設されているカフェで友人と待ち合わせをしていたのだろう、しかし予定よりも随分早く着いてしまったために、宙ぶらりんになってしまった時間を、その席で過ごしていたのだ。当時、彼女と僕は、偶然にも同じ機種で同色の携帯電話を持っていて、彼女のほうの携帯電話が、カウンター席のテーブルに置かれていた。試読していた本をこのまま買って(流行に乗ってただ読んでみようかと思っていた、大して興味のない本について、僕は購入の決断をするほどにその時その本の世界に入り込んでいたわけだ)、カフェでコーヒーでも飲んで帰ろうと思い立った僕は、そのカウンター席のテーブルに置かれた携帯電話をすっかり僕のものだと思い込んだために、何気なく手にとって、そのまま立ち去ろうとしたのだ。無論、自分の携帯電話を手に取り席を離れただけなのだから、僕にとっては当たり前の行動なのだが。しかしその瞬間、彼女の(人に触れるには些か冷え過ぎているように思えた)手が、僕の手を掴んだ。ハッとした僕が振り返ると、小さな声と怪訝な表情で、彼女は言った。「それ、、私のです」。果たしてそのテーブルに置いてあった携帯電話がすっかり僕自身のものであると信じて疑わずに、それを手にしたまま連れ去ろうとした僕は、彼女が何をいっているのか、ほとんどその言葉の意味も、手を掴まれた意味も、そして彼女の手が冷たすぎるという感覚さえも、まるで意味がわからなかった。彼女が僕の手に持った携帯電話を指差しながら、再度僕に、「それ、私のです」という言葉をかけた時、ようやく、僕は全てを理解した。
それが、彼女と僕との出会いである。
それからは、今のような関係になるまでそう時間はかからなかった。あの時(彼女の冷たすぎる手が僕に触れたあの時のことだ)、僕はもうすでに彼女に惹かれていたし、彼女も同様の感覚であったと、本人の口から聞いたことはないにせよ、そうだと信じている。