埼玉エキセントリック

埼玉人ですが小説が好きです。埼玉人ですが小説を書きます。

2、ピンヒールと網タイツについての考察(其の四)

   

 確固たる断りの理由なき予定の、待ち合わせ時間だけが迫り、せめて彼女と会う前に、美しい詩と熱いコーヒーで、この気持ちを流しこもうと、カフェに併設されている本屋に寄ったのだ。
 彼は私の横で、その時流行になっていた小説を読んでいた(小説を好む私にとって、その時彼が読んでいた本は、まるでおもちゃのように感じてしまうほど、チープな内容のものだったが、彼にそのことを伝えたことは無い)。男性にしてはやけに美しく大きな手で、うなじの癖っ毛が、くるんとカールしている。薄いブルーのシャツと、黒いパンツがよく似合う。大きな肩と、太い腕が、男性らしさを感じさせる。彼の小説を読む何気ない姿を見て、「あぁ、私はこの人に抱かれたい」と強く思ったのを鮮明に覚えている。偶然にも彼が小説を読む横の席が空いていて、迷いなくその席に座った。自分の考えを穏やかにするために選んだ詩集と、熱いコーヒーを手にその席に座ったが、横にいる彼のことが気になり、詩集を読んだふりをしていた。すると、彼が時間を確認するためにポケットから出した携帯電話が、私のものと同じであることに気づき、私はある作戦を思いついたのだ。私の携帯電話を、なるべく彼のテリトリーに置いておけば、彼が去り際にそれを彼自身のものだと思い込み、持ち去ってくれないだろうか。そうすれば、ごく自然に、彼に話しかけるチャンスができる。少しでも話しかければ、彼と恋に落ちる。そんな根拠なき確信だけが、私にはあった。彼が小説に入り込んでいるタイミングを見計らい、それとなく彼のテリトリーに、私の携帯電話を置く。まるで、初めからそこにあって、あなたの携帯電話はそこですよ、と主張させるように。このまま待ち合わせの時間がきたところで、私にとっては、この、横で小説を読む、くせ毛の、手の美しい男性に今夜抱かれるか否かの方が大切だ。
 するとその機会は、すぐにやってきた。私が携帯電話をそこに置いて、詩集を読んだふりをしようと視線を戻し、数行を目で追った時、彼はふと私の携帯電話を手に持ち、席を立とうとした。

 - 猫の影